大阪地方裁判所 平成元年(ワ)7716号 判決 1992年3月24日
主文
一 被告は別紙物件目録記載の塩酸ニカルジピンの原末を輸入し又は販売してはならない。
二 被告は別紙物件目録記載の塩酸ニカルジピンを含有する塩酸ニカルジピン製剤(商品名「コロンポ錠20」及び「コロンポ散10パーセント」)を製造し又は販売してはならない。
三 被告はその占有する第一項記載の塩酸ニカルジピンの原末及び第二項記載の塩酸ニカルジピン製剤を廃棄せよ。
四 訴訟費用は被告の負担とする。
五 この判決の第一項及び第二項は仮に執行することができる。
理由
第一 請求
主文と同旨
第二 事案の概要
一 原告の権利
原告は、次の特許権(以下「本件特許権」といい、その発明を「本件発明」という。)を有する(争いがない。)。
登録番号 第一一〇七一〇三号
発明の名称 新規な1・4-ジヒドロピリジン-3・5-ジカルボン酸アミノアルキルエステル誘導体の製法
出願日 昭和四八年四月一七日(特願昭五四-一五八四六二)
出願公告日 昭和五六年二月一〇日(特公昭五六-六四一七)
設定登録日 昭和五七年七月三〇日
明細書の特許請求の範囲の記載 添付の特公昭五六-六四一七号特許公報(以下「公報」という。)の特許請求の範囲の欄に記載のとおり(但し公報2欄31、32行の「低級アルキレン基」は「低級アルキル基」の誤植である。以下特許請求の範囲において(<1>)~(<4>)と注記されている各化学式を順次式<1>ないし<4>といい、公報2欄28~30行に記載の化学式を式<5>という。)。
二 2・6-ジメチル-4-(3’-ニトロフェニル)-1・4-ジヒドロピリジン-3・5-ジカルボン酸-3-メチルエステル-5-β-(N-ベンジル-N-メチルアミノ)エチルエステル塩酸塩
1 右特許請求の範囲において式<4>をもつて示される目的物質「1・4-ジヒドロピリジン-3・5-ジカルボン酸アミノアルキルエステル誘導体の塩」のうちに、別紙物件目録記載の構造式を有する、化学名を「2・6-ジメチル-4-(3’-ニトロフェニル)-1・4-ジヒドロピリジン-3・5-ジカルボン酸-3-メチルエステル-5-β-(N-ベンジル-N-メチルアミノ)エチルエステル塩酸塩」と呼ばれる化合物(以下、右構造式及び化学名で表される化合物を、その融点や結晶構造の如何にかかわらず、「塩酸ニカルジピン」という。)があり、これは、式<4>において二つのR1が同一の低級アルキル基であるメチル基、R4が水素原子、R5が低級アルキル基であるメチル基、R6が式<5>で示される基(但しAは直鎖のアルキレン基であるエチレン基であり、R2は低級アルキル基であるメチル基であり、R3はアラルキル基であるベンジル基)である化合物の塩酸塩である。
2 本件特許出願の願書添付の明細書(昭和五四年一二月一四日付及び昭和五五年八月二九日付手続補正書による補正後のもの。以下「本件明細書」という。)の発明の詳細な説明の欄の実施例2、実施例7及び実施例8には、塩酸ニカルジピンの化学名(但し右のうち実施例7の元素分析値の項には塩酸ニカルジピン一分子にアセトン二分の一分子を付加した組成式が記されている。)を記した化合物についての実施例が記載されている。(以下、実施例2前段〔公報6欄30行~7欄8行〕記載の方法により得られた結晶を結晶<1>、同後段〔公報7欄9~13行〕記載の方法により得られた結晶を結晶<2>、実施例7〔公報9欄9~30行〕記載の方法により得られた結晶を結晶<3>、実施例8([1])〔公報9欄32~10欄24行〕記載の方法により得られた結晶を結晶<4>、実施例8([2])〔公報10欄25~35行〕記載の方法により得られた結晶を結晶<5>という)。本件明細書には、各結晶の融点について、結晶<1>は「136~140℃(分解)」、結晶<2>は「168~170℃」、結晶<3>は「128~132℃(分解)」、結晶<4>は「168~170℃」、結晶<5>は「179~181℃」を示す旨の記載があり、結晶形について、結晶<4>をβ型結晶、結晶<5>をα型結晶と記載している。
3 塩酸ニカルジピンは、昭和四八年四月一七日の時点において、日本国内において公然知られた物でなかつた。
三 被告の行為
被告は、医薬品の製造、医薬品・医薬部外品等の販売及び輸出入等を目的とする株式会社であり、昭和六三年一〇月二七日に、塩酸ニカルジピン原末について我が国において輸入販売するため厚生大臣の医薬品輸入承認を受けた(日時を除き争いがない。)。
被告は、塩酸ニカルジピン製剤につき、商品名を「コロンポ錠20」及び「コロンポ散10パーセント」として医薬品製造承認を受け、平成二年七月一三日に薬価基準への収載も受けて、現在同製剤を製造販売している(争いがない。)。
被告が、輸入、製剤している塩酸ニカルジピンの融点は一六七~一七一℃である。
四 本件発明の出願経過(証拠は各項目毎に項目末尾に一括して記載)
1 原告は、昭和四八年三月三日、特願昭四八-二五五六六号特許出願(発明の名称「新規な1・4-ジヒドロピリジン-3・5-ジカルボン酸アミノアルキルエステル誘導体の製法」。以下この出願を「原出願」という。)をした。
原出願が願書添付の明細書の特許請求の範囲及び発明の詳細な説明の欄の記載は、別紙特開昭四九-一〇九三八四号公開特許公報の該当欄に記載(但し実施例1ないし10の記載は添付を省略した。)のとおりであり、実施例中に塩酸ニカルジピンの製法は記載がなかつた。
2 原告は、原出願について、昭和四八年四月一七日に、同日付手続補正書(以下「手続補正書(1)」という。)を提出し、明細書の発明の詳細な説明の欄に実施例11ないし実施例22の記載を挿入する補正をした。
このうち、実施例13において塩酸ニカルジピンの化学名を記した化合物の製造方法を記載した。その記載は本件明細書の結晶<1>についての実施例2前段の記載とほぼ同一である。
3 原告は、原出願について、昭和四八年七月三日に、同日付手続補正書(以下「手続補正書(2)」という。)を提出し、明細書の発明の詳細な説明の欄の記載及び手続補正書(1)の記載の各一部を訂正(この中で、実施例13の記載中、「3’-ニトロン」を「3’-ニトロ」と訂正)するとともに、発明の詳細な説明の欄に実施例23ないし実施例25の記載を挿入する補正をした。
このうち、実施例23において塩酸ニカルジピンの化学名を記した化合物の製造方法を記載した。その記載は結晶<3>についての本件明細書の実施例7の記載と同一である。
4 原告は、原出願について、昭和四八年七月三一日に、同日付手続補正書(以下「手続補正書(3)」という。)を提出し、手続補正書(1)の記載の一部を訂正(この中で、実施例13の記載中、「カラムクロマト」を「シリカゲルカラムクロマト」と訂正)する補正をした。
5 原告は、原出願について、昭和四八年一一月二九日に、同日付手続補正書(以下「手続補正書(4)」という。)を提出し、明細書の発明の詳細な説明の欄に、発明目的物の薬理作用として、脳血流増加作用、椎骨動脈及び大腿動脈に対する直接作用並びに鎮痙作用に関して右実施例13及び23の化合物を検体として測定した結果を記載する補正をした。
6 特許庁長官は、昭和四九年一〇月一七日、原出願について、願書添付明細書及び手続補正書(1)ないし(4)の記載事項を公開特許公報に掲載して出願公開をした。
7 原告は、原出願について、昭和五二年五月三一日に、同日付手続補正書(特許法一七条の二による補正。以下「手続補正書(5)」という。)を提出し、明細書の特許請求の範囲及び発明の詳細な説明欄のほぼ全文を補正した。
このうち、実施例2において、前記実施例13の記載とほぼ同一の記載をしたのに続けて、更に塩酸ニカルジピンの化学名を記した化合物の製造方法を記載した。その記載は結晶<2>についての本件明細書の実施例2後段の記載と同一である。
また、新たに、実施例10([1])において塩酸ニカルジピンの化学名を記した化合物の製造方法を記載し、その結晶をβ型結晶と記載した。その記載は結晶<4>についての本件明細書の実施例8([1])の記載とほぼ同一(公報10欄8、9行の「酢酸エチルエステル」に対応する部分が「酢酸エチル」とある以外は同一)である。更に、実施例10([2])においても塩酸ニカルジピンの化学名を記した化合物の製造方法を記載し、その結晶をα型結晶と記載した。その記載は結晶<5>についての本件明細書の実施例8([2])の記載と同一である。
8 特許庁長官は、昭和五二年八月二三日、原出願について、手続補正書(5)の記載事項を公開特許公報に掲載した。
9 特許庁審査官は、昭和五四年九月二七日付補正の却下の決定書で、手続補正書(1)、(2)、(4)及び(5)による各補正について、「原出願の出願当初の明細書には、R2が式-A-N-R3-R4(式中Aは明細書と同義でR3はアラルキル基またはアリール基でR4はアルキル基である)で示される基を有する化合物については単に一般的な説明がなされているのみで、何ら具体的な裏づけのある記載はなされておらず、この出願の発明は新規かつ有用な化合物を提供することを目的とするものであることを考慮すると、その生成する目的化合物についての具体的資料が何ら示されていないこの出願発明は、出願時に完成されていたものと認めることができず、したがつて、各補正は具体的技術内容を補充することにより発明を完成するものであつて、明細書の要旨を変更するものと認めざるを得ないから特許法五三条一項の規定により補正を却下する」旨の理由で、補正却下の決定をなし、各決定謄本は同年一一月六日に発送され、その頃、原告に送達された。
10 原告は、昭和五四年一二月六日、昭和六〇年法律第四一号による改正前の特許法(以下「改正前特許法」という。)五三条四項に規定する補正後の発明についての新たな特許出願として本件特許出願をなし、その出願と同時に同項の適用を受けたい旨を記載した書面を特許庁長官に提出した。その際、願書の原特許出願の表示の欄には、「昭和四八年特許願第二五五六六号(昭和四八年四月一七日手続補正書提出)」と記載したが、発明の詳細な説明中には結晶<1>についての実施例2前段の他に結晶<2>についての実施例2後段及び結晶<3>についての実施例7を記載した。
11 原告は、本件特許出願について、同年一二月一四日に、同日付手続補正書(以下「手続補正書(6)」という。)を提出し、明細書の発明の詳細な説明の欄に結晶<4>及び<5>についての実施例8の記載を加入する補正をした。
12 特許庁長官は、昭和五五年六月二七日、本件特許出願について、願書添付明細書及び手続補正書(6)の記載事項を公開特許公報に掲載して出願公開をした。
13 原告は、同年八月一二日頃、拒絶理由の通知を受けて、同年八月二九日に、本件特許出願について、同日付の意見書に代える手続補正書を提出し、特許請求の範囲及び発明の詳細な説明の欄の記載を一部訂正ないし加入する補正をした。
14 特許庁審査官は、その後、本件特許出願について、出願公告をすべき旨の決定をし、出願公告を経て、昭和五七年三月二九日特許をすべき旨の査定をした。
五 争点-特許法一〇四条推定規定適用の可否
原告が、本件特許出願に際して発明の詳細な説明の欄に結晶<2>についての実施例を記載し(前項10)、手続補正書(6)で結晶<4>及び結晶<5>についての実施例の記載を加入する補正をしたこと(前項11)が、原出願についての手続補正書(1)による補正後の発明の明細書の要旨を変更するものであるか。(それが肯定されると、特許法四〇条の適用により、本件特許出願は右各記載のあつた昭和五四年一二月にしたものとみなされるため、同月前に塩酸ニカルジピンは日本国内において公然知られた物になつていたから、原告は、被告の輸入、製剤する塩酸ニカルジピンについて特許法一〇四条所定の生産方法の推定を受けることができないことになる。)
第三 争点に関する当事者の主張
一 被告の主張
1 結晶<1>は塩酸ニカルジピンとは異なる化合物である。
結晶<1>は塩酸ニカルジピン結晶ではなく、塩酸ニカルジピンに結晶溶媒としてエチルエーテル及びアセトンが結合(塩酸ニカルジピン一分子あたりエチルエーテル二分の一分子及びアセントン六分の一分子の割合により結合)した塩酸ニカルジピン溶媒和物結晶であり、エチルエーテル及びアセトンを結晶格子に取り込んだものである。
このことは、被告研究部員が本件明細書の結晶<1>についての実施例2前段の製造方法を追試して得た結晶についての、元素分析、融点測定、質量測定、赤外分光分析、熱重量測定・示差熱分析、熱重量測定・示差走査熱量測定、X線回析、顕微鏡観察、GC/MS分析、薄層クロマトグラフィー、核磁気共鳴分析の結果を総合し、結晶<2>ないし<5>についての実施例の記載を追試して得た結晶についての分析結果とも比較して検討した結果から明らかである。
原告は、結晶<1>は塩酸ニカルジピン結晶であり、被告が結晶<1>についての実施例2前段の製造方法を追試して得た結晶の分析の結果、アセトン及びエチルエーテルの存在が確認されたのは、溶媒として用いたアセトン及びエチルエーテルが付着していたからにすぎないと主張するが、溶媒として使用されるアセトンの沸点は五六・三℃であり、エチルエーテルの沸点は三四・五℃であるから、付着しているものであれば、各追試のいずれの乾燥方法によつても蒸発して除去されるはずであり、右乾燥の後においても、アセトン及びエチルエーテルの存在が確認されたということは、それらが単に塩酸ニカルジピン結晶に付着しているのではなく、結合していることを示している。原告は、本件の如く有機アミン類の場合には、結晶に付着した溶媒を除くことは困難なことが多いと主張するが、結晶<2>、<4>及び<5>についての実施例の記載を追試して得た結果については、溶媒として用いたアセトンは通常の乾燥条件で除去されており、結晶<1>についてのみ付着した溶媒を除くことが困難であるというのは不合理である。
なお、過酷な乾燥条件に置かれた場合、溶媒和物結晶中の結合溶媒の一部が離脱する現象は広く知られており、奇異な現象ではないから、熱重量測定における重量現象が理論値より少ないことは、結晶<1>が溶媒和物結晶であることと矛盾しない。
結局、実施例2前段には、同定を誤つた結果塩酸ニカルジピンの化学名が記載されているにすぎず、原出願についての手続補正書(1)提出の段階では、実際に製造できたのは塩酸ニカルジピンに結晶溶媒としてアセトン及びエチルエーテルが結合した溶媒和物結晶であつて、塩酸ニカルジピンの製造はできていなかつた。
2 特許法四〇条の適用(要旨変更の補正)
本件特許出願は、原出願につきなされた手続補正書(1)による補正が明細書の要旨を変更するものであるとして却下の決定を受けたことに応じて、改正前特許法五三条四項に規定する新たな特許出願としてなされたものである。原告は、手続補正書(1)による補正後の発明について新たな特許出願をしたのであり、その他の手続補正書による補正後の発明については同項に規定する新たな特許出願をしていない。
本来、「塩酸ニカルジピン」という名称は、中央薬事審議会名称調査会が医薬品の一般名称として定めたものであり、「2・6-ジメチル-4-(3’-ニトロフェニル)-1・4-ジヒドロピリジン-3・5-ジカルボン酸-3-メチルエステル-5-β-(N-ベンジル-N-メチルアミノ)エチルエステル塩酸塩」なる化学名の物質で融点一六七~一七一℃の医薬品を指称するものであり、結晶<1>は、右医薬品たる化学物質とは化学名、化学構造式、組成式、分子式、分子量、融点、融解時における分解と非分解という挙動がそれぞれ異なる別物質であり、結晶多形の関係にあるものではない。
ある化学物質の溶媒和物結晶と結晶溶媒の結合していない化学物質の結晶とは化学組成が異なる別の化学物質であつて、両者の製造方法は全く異なる技術であり、新規な化学物質の製造に際しては、結晶溶媒の結合していない化学物質の製造を目標とするのが通常であり、新規な溶媒和物結晶の製造方法が実施されている場合であつても、新たに結晶溶媒の結合していない化学物質を製造することは別個の新たな発明である。
右のとおり、手続補正書(1)による補正により明細書に開示されたのは、実際には溶媒和物結晶である結晶<1>であつて、結晶溶媒の結合していない純粋な化学物質である塩酸ニカルジピンではない。手続補正書(1)の段階においては、原告は未だ塩酸ニカルジピンを実際には製造しておらず、開示できていなかつたのである。原告の結晶<1>の製造目的が塩酸ニカルジピンの製造であるとすれば、その溶媒和物結晶の製造により塩酸ニカルジピンの製造方法が完成したとはいえず、右補正の段階では未完成発明にすぎない。未完成発明の出願の後に、出願当初には開示されていなかつた塩酸ニカルジピン結晶の製造方法を補正することは、未完成発明を完成させるものであつて、要旨変更にあたる。
したがつて、手続補正書(1)による補正に基づくべき本件特許出願に際して、実施例2後段に結晶<2>についての記載を挿入しても、改正前特許法五三条四項の適用による出願日遡及の効果を受けることができるのは、手続補正書(1)に開示されている結晶<1>についてのみであり、結晶<1>とは異なる化学物質であり、手続補正書(1)には具体的資料の記載のない塩酸ニカルジピン結晶である結晶<2>についての実施例を追加することは、手続補正書(1)による補正後の発明の明細書の要旨を変更する補正に該当するから、これについて同項の規定の適用を受けて昭和四八年四月一七日に出願されたとみなすことはできない。結晶<4>及び<5>も手続補正書(1)による補正後の明細書には具体的に開示されていないのであるから、同様に、これを追加する昭和五四年一二月一四日付の手続補正書(6)による補正も要旨変更に該当する。そして、結晶<2>は昭和五四年一二月六日の出願に際し補正されたものであつて、結晶<4>及び<5>は同月一四日の手続補正書(6)によつて補正されたものであるから、特許法四〇条の適用により、出願日は昭和五四年一二月に繰り下がる。
化学において原子の原子価は知られており、出発原料となるべき物質や処理手段について様々な知識が知られている。これらの既知の知識に基づいて、起こりそうな化学反応、出発原料となるべき物質から目的物質を製造する過程を想定すること、そしてまた得られそうな目的物質の構造式を想定することは比較的容易である。しかし、起こりそうな化学反応やありそうな目的物質を如何に緻密に予想したところで、化学反応は現実に起こるとは限らないし、目的物質が現実に得られるとは限らない。化学反応が実際に如何に進行するかは、一般的には実際に実験してみなければ判らないのであつて、化学が実験の科学といわれる所以である。
したがつて新規物質の製造方法に関する発明については、実際にその実験を行い、生成した物質を科学的に同定することが必要であり、明細書にはかような実験が行われたことを証し、追試により生成した物質を確認するに足りる資料が記載されなければならない。出願者が存在を想定したのみで実際には製造していない新規物質や、製造できたものと誤認したが実際には別の物質が生成していたときには、想定されたり誤認された新規物質が特許により保護されることはない。
右のとおり、化学は実験による裏付を必要とするものであるから、新規物質の製造方法の発明が成立するのは実際に製造した化学物質についてであり、想定されただけの一般式や構造式に該当する化学物質についてではない。
本件は、出願時には実際に製造した結晶の同定を誤り、それとは別の未製造の化学構造の物質を製造した旨明細書に記載し、その後にその誤つた記載の化学構造に相当する物質を製造する実施例を補正(追加)したものであり、未完成発明を完成発明として出願して出願日を確保した上で、その後の実験により発明を完成し、出願後に得た成果を補正として次々と追加したのである。
なお、物質の融点等の熱的挙動は、直接的に観測することのできる現象であつて、物質の同一性を確認するための重要な標識である。結晶<1>と<2>、<4>及び<5>との融点及び融点における分解と非分解という熱的挙動の差だけをみても、両者が同一物質といえないことは明らかである。
3 原告の主張について
原告は、融点の相違や結晶多形は要旨変更の問題を生じないと主張するが、医薬品としての利用を目的とした化学物質においては、融点、結晶多形は同一性判断のための重要な資料とされている。品質、規格の確保においてこれらが問題とされているのは、これらが物の同一性判定の重要な資料であるからにほかならない。医薬品としての利用を目的とした化学物質の製造方法の特許侵害訴訟において、医薬品として使用できる物質とできない物質とが同一の物質でないことは当然である。なお、医薬品たる塩酸ニカルジピンは人に投与され、人の体内において溶液状態において作用するものであるが、実験室内でのクロロホルム溶液中と、人体内での溶解状態とは全く条件が異なることは明らかであり、結晶<1>、<2>、<4>及び<5>がクロロホルム溶液中において同じ特徴があるとしても、それを根拠にこれらをすべて同一の物とすることはできない。
原告はまた、塩酸ニカルジピンと塩酸ニカルジピンの溶媒和物結晶とは発明の評価上及び技術的範囲の解釈上は同一物質の範囲内であると主張するが、両者は、化学名、化学構造式、組成式、分子式、分子量、融点、融解時における分解と非分解という挙動等において異なる別物質である。しかも、或る化合物とその水和物とが異なる化学物質であることはいうまでもないが、或る化合物とその溶媒和物の関係は、それとその水和物との関係に比べて遥かに未知の要素が大である。近代の化学は、物質構成の究極因子を元素とし、物質の性質はその成分元素の種類と結合様式によつて定まるものと理解し、結晶については、その内部において、結晶毎にある定まつた配列をした原子の集まりがその結晶の構成単位となつて、それらの単位が空間的に一定の繰り返しを保つて互いに並行に配置していると理解している。塩酸ニカルジピンの溶媒和物結晶にあつては、結晶格子の中に結晶溶媒であるアセトンとエチルエーテルが結合しているのであつて、これと塩酸ニカルジピンとが、化学的にも、特許発明の目的物質としての見地からも異なるものであることは明らかである。溶媒の選択、温度条件等、晶析方法として種々の方法が知られているが、いずれの方法を採用することにより目的物質を得ることができるかは、実験により確認されなければならない。一般に知られている晶析方法であつても、いずれの方法によれば意図された目的物質を得ることが可能かを確定することは重要な技術的課題であつて、これが解決されなければ発明は完成したものといえない。
4 結論
右のとおりであるから、特許法一〇四条の適用における物の新規性の判断は、本件発明の出願時とみなされる昭和五四年一二月を基準とすることになる。そして、遅くとも、昭和五二年八月二三日に、手続補正書(5)の記載事項が公開特許公報に掲載され、更に昭和五四年六月二五日頃、同日付の「ケミカル アンド ファーマスーティカル ブレティン」第二七巻六号が発行され、そこに掲載された論文において塩酸ニカルジピンには、融点、赤外分析、X線分析値の異なるα型とβ型があること、α型は融点が一七九~一八一℃であること、β型は融点が一六八~一七〇℃であること、製法により融点が一七〇℃のものが得られることが記載されており、右各記載の物質は結晶<2>、<4>及び<5>に相当するものであるから、塩酸ニカルジピンたる結晶<2>、<4>及び<5>は右雑誌の発行によつても公知となつており、被告が輸入、製剤する融点一六七~一七一℃の塩酸ニカルジピンは、出願時とみなされるときには新規物質ではないから、特許法一〇四条の推定は働かない。
なお、手続補正書(5)の提出時である昭和五二年五月三一日を新規性判断の基準とするとしても、塩酸ニカルジピンはそれ以前に多数の文献において、YC-93なる開発番号が付され、一・四-ジヒドロピリジン誘導体であると記述され、かつ化学名、構造式が示され、実験の内容が詳細に発表されて公知となつているから、特許法一〇四条の推定規定は適用できない。
二 原告の主張
1 塩酸ニカルジピンは、手続補正書(1)において、特許請求の範囲に記載された構造式を有する具体的な化合物として実施例に開示されていた。
すなわち、手続補正書(1)の実施例13には、得られた化合物として塩酸ニカルジピンの化合物名が記載され、その化合物の融点及び元素分析値も明記されており、その元素分析の実験値は塩酸ニカルジピンであることを支持するものである。右実施例の記載は、特許請求の範囲に構造式によつて特定された本件発明の目的物質に属する具体的化合物である塩酸ニカルジピンを開示し、その生成を裏付けるものである。右開示のある塩酸ニカルジピンを、特定の融点あるいは結晶形のみに限定して解釈すべき理由はない。
結晶<2>、<4>及び<5>についての実施例の追加は、当初から開示されている本件発明の具体的目的物質である塩酸ニカルジピンについて、その結晶多形の製造例を追加する補正にすぎない。結晶<1>と右各結晶とで融点が異なるのは、塩酸ニカルジピンは結晶多形の性質を持つことに起因して、化学構造としては同一の物質であるが結晶形によつて融点が異なるからである。
すなわち、結晶<1>と結晶<2>、<4>及び<5>は、いずれも本件発明方法の各出発物質を反応させることによつて製造された別紙物件目録記載の構造式及び化学名で示される塩酸ニカルジピンであることに変わりなく、結晶採取の手法において相異するために、化学物質としての構造式は何ら変化しないが、結晶を採取する際の条件(溶媒の種類、温度等)によつて結晶の形状が変化し、融点が変わるのであり、化学の分野ではよく見られる現象である。しかも、いずれの結晶採取の手法も常用のものである。
また、塩酸ニカルジピンの薬効は塩酸ニカルジピンの化学構造によるものであつて結晶形如何によるものではなく、結晶<1>と結晶<2>、<4>及び<5>は溶液状態においては全くの同一物質であり、その作用効果は質的にも量的にも何ら異ならない。特に、結晶<2>についての実施例は、結晶<1>について「メタノール6mlにとかし、この溶液を減圧下濃縮し、得られたカラメル状残渣にアセトン10mlを加えて氷冷下かきまぜる」との再結晶処理を施しただけのもので、結晶<2>は結晶<1>と同一の塩酸ニカルジピンであつて、単に再結晶処理により結晶形を異にしただけのものである。そして人体に投与されて溶液状態において作用するについて、結晶<1>と結晶<2>の作用効果は質的にも量的にも同じで何ら異ならない。
したがつて、結晶<2>、<4>及び<5>についての実施例の追加は、特許請求の範囲に記載された技術的事項を変更するものではないから、要旨変更にはあたらない。
2 本件全証拠によつても、結晶<1>が、「塩酸ニカルジピン一分子にアセトン六分の一分子、エチルエーテル二分の一分子とが結合した化合物である」という被告主張は立証されていない。
本件の如く有機アミン類の塩の場合には、結晶に付着した溶媒や水を除くことは困難なことが多いから、結晶<1>についての実施例を追試して得た結晶に観察される、融点近傍における発泡現象、熱分析における重量減少や二つの吸熱ピークも、除去の困難な付着溶媒が融点近傍で揮発し、融点が溶媒が揮発する融点と純結晶の融点に分離して認められ、揮発による重量減少を生じたにすぎないと考えることもできるから、それらの現象のゆえに溶媒和物結晶であると断定することはできない。
また、結晶<1>についての実施例を追試して得た結晶の質量現象の実測値が、被告主張の結合比の溶媒和物である場合の理論値を下回つていることからも、溶媒和物結晶であるとは認めがたい。
溶媒和物結晶か単なる不純物としての溶媒の付着かは、単結晶を採取してそのX線回析をするのでなければ明確に区別できないのであつて、本件全証拠によつても、結晶<1>が溶媒和物結晶であると認定することはできない。
結局、例え結晶<1>についての実施例を追試して得た結果に溶媒が存在したとしても、単に溶媒が塩酸ニカルジピンの結晶に付着しているにすぎないとみるべきである。結晶<1>は塩酸ニカルジピンであり、明細書記載の結晶<1>の実施例によつて塩酸ニカルジピンが生成する以上、不純物たるアセトンやエチルエーテルが検出されたとしても、被告主張の如き要旨変更の問題は生じない。
3 本件特許請求の範囲に構造式をもつて特定された目的物質に属する、具体的化合物である塩酸ニカルジピンと塩酸ニカルジピンの溶媒和物結晶とは、本件発明の評価上並びに技術的範囲の解釈上は、同一物質の範囲内のものというべきである。
すなわち、仮に結晶<1>が被告主張のとおり塩酸ニカルジピンの溶媒和物結晶であるとしても、単に一定の結合比で溶媒が結合しているにすぎないものであり、この関係は化合物とそれに結晶水が結合した水和物との関係と同視することができ、有機化合物の発明について、当該有機化合物とその水和物とは発明評価上同一として特許庁で扱われている。また、塩酸ニカルジピンの溶媒和物結晶といえども、結局は、本件発明の目的物質の範囲内に属することに変わりはないのであり、結晶<1>が溶媒和物結晶であるか否かを論じる被告主張自体が、何ら要旨変更の結論を導きだし得ない失当なものである。本件発明は、特許請求の範囲において式<4>をもつて示される新規な1・4-ジヒドロピリジン-3・5-ジカルボン酸アミノアルキルエステル誘導体及びその塩の製法であつて、その一部に属する、「塩酸ニカルジピン」のみの製法ではない。結晶<1>が塩酸ニカルジピン溶媒和物結晶であつて、塩酸ニカルジピンではない旨の被告主張は、化学物質としての同一性の問題と、特許発明の目的物質としての同一性の問題を取り違えたものである。
4 改正前特許法五三条四項は、「補正後の発明」について新たな特許出願をなすことを認めたものであり、手続補正書(1)記載の実施例化合物のみに限定されるものではなく、同手続補正書により補正された後の明細書と要旨を同じくする限り、補正後の発明の範囲内における新たな出願を認めたものである。そして塩酸ニカルジピンの実施例たる結晶<1>の実施例に加えて、同じく塩酸ニカルジピンの実施例である結晶<2>の実施例を記載することは、当然に補正後の発明の範囲内である。
第四 当裁判所の判断
一 要旨変更の主張の当否
1 本件特許権の出願は、改正前特許法五三条四項に規定する新たな特許出願としてなされたものであり、原告は、出願に際して、願書の原特許出願の表示の欄に、特許法五三条一項の規定により却下された補正についての手続補正書の提出の年月日(昭和六〇年通商産業省令第四五号による改正前の特許法施行規則様式第15、備考2参照)として手続補正書(1)の提出年月日である昭和四八年四月一七日を記載して、同条四項の適用を受ける却下された補正として手続補正書(1)による補正を選定しているから、手続補正書(1)による補正後の原出願の願書添付の明細書に記載された発明が、同項に規定する「その補正後の発明」に該当することになる。
また、改正前特許法五三条四項は、「……その補正後の発明について新たな特許出願をしたときは、その特許出願は、その補正について手続補正書を提出した時にしたものとみなす」規定であるから、同項の規定による新たな特許出願に際して明細書又は図面に記載すべき発明は、却下された補正による補正後の原出願の願書添付の明細書又は図面に記載された発明と同一性を有するものでなければならない。そして、発明とは「自然法則を利用した技術的思想の創作のうち高度のものをいう。」(特許法二条一項)のであるから、その同一性は具体的な技術的思想としての同一性を意味すると解されること、及び、同項による新出願についても、出願公告をすべき旨の決定の謄本の送達前においては、特許法一七条一項及び一七条の二に定める要件のもとに願書添付の明細書又は図面について補正することができ、その補正が要旨を変更するものと特許権の設定の登録があつた後に認められたときは、その特許出願は、その補正について手続補正書を提出した時にしたものとみなされる(同法四〇条)ことに照らすと、却下された補正による補正後の原出願の願書添付の明細書に記載された発明と新たな特許出願にかかる発明が同一性を有するか否かは、新たな特許出願の願書添付の明細書の要旨が、却下された補正による補正後の原出願の願書添付の明細書に記載された技術的事項の範囲内のものか、範囲外のものかにより判断すべきであり、また、特許権の設定の登録があつた後に右範囲外のものと認められたときは、同法四〇条の規定を類推適用して、その特許出願は新たな特許出願の願書を提出した時にしたものとみなすべきものと解される。
そこで、以下、新たな本件特許出願に際して、その願書添付の明細書中に結晶<2>についての実施例2後段を追加して記載したことにより、同明細書の要旨が、手続補正書(1)による補正後の原出願の願書添付の明細書に記載された技術的事項の範囲外のものとなつたと認められるか否かを検討する。また、被告は、手続補正書(6)により結晶<4>及び<5>についての実施例8([1])及び([2])の記載を加入する補正をしたことが、手続補正書(1)による補正後の原出願の願書添付の明細書の要旨を変更する旨の主張をするが、特許法四〇条の規定の文言を、改正前特許法五三条四項に基づく新たな出願の場合に特に他と区別して解すべき根拠も見出し難いから、右補正が、本件特許出願の願書に添付された明細書の要旨を変更するものと認められるかを検討する。
2 本件特許出願は、本件明細書の記載によれば、式<1>で示されるアシル酢酸エステルを式<2>で示されるアルデヒド及び式<3>で示される化合物と反応させることを特徴とする、式<4>で示される新規な1・4-ジヒドロピリジン-3・5-ジカルボン酸アミノアルキルエステル誘導体及びその塩を製造する方法(式中二つのR1は同一または異なつた低級アルキル基を、R5とR6は一方は低級アルキル基であり、他方は式<5>〔但しAは直鎖又は分枝状のアルキレン基を、R2は低級アルキル基を、R3はアラルキル基またはアリール基を意味する。〕で示される基を、R4は水素原子または低級アルキル基を意味する。)をその要旨とするものであり、各式及び実施例の記載に照らすと、その化学反応の特徴は、式<1>中の二つの水素原子と式<2>中の酸素原子を、式<1>のR1CO中の酸素原子と式<3>中の二つの水素原子をそれぞれ結合させ水として分離する化学反応(脱水縮合反応)により、1・4-ジヒドロピリジン環を形成させて式<4>に示される化学物質を製造する点にあると認められる。
そして、右目的物質に属する具体的化合物のうち、二つのR1が同一の低級アルキル基であるメチル基、R4が水素原子、R5が低級アルキル基であるメチル基、R6が式<5>で示される基(但しAは直鎖のアルキレン基であるエチレン基であり、R2は低級アルキル基であるメチル基であり、R3はアラルキル基であるベンジル基)である化合物の塩酸塩である塩酸ニカルジピンについては、手続補正書(1)による補正で挿入された実施例13に、「アセト酢酸N-ベンジル-N-メチルアミノエチルエステル4・98g、β-アミノクロトン酸メチルエステル2・3g及びm-ニトロベンズアルデヒド3gとを混合し、油浴一〇〇℃で6時間かきまぜる。反応液をカラムクロマトグラフィー(直径4cm、高さ25cm)に付し、フロロホルム-アセトン混液(20:1)で溶出し、溶出液を薄層クロマトグラフィーで追跡し、目的物を含む溶出液を濃縮する。
得られる粉末をアセトンに溶解し塩化水素飽和エタノール溶液でpH1~2とした後濃縮し2・6-ジメチル-4-(3’-ニトロンフェニル)-1・4-ジヒドロピリジン-3・5-ジカルボン酸3-メチルエステル-5-β-(N-ベンジル-N-メチルアミノ)エチルエステル塩酸塩2gを得る。このものを、アセトン-エーテルより結晶化する。
融点 136~140℃(分解)
元素分析値(C26 H30 N3 O6Clとして)
C(%) H(%)
理論値 60・52 5・86
実験値 60.25 5・87
N(%) Cl(%)
8・14 6・87
7・88 6・67」
と記載され、特許請求の範囲に記載の原料化合物の反応により、本件発明の目的化合物に属する塩酸ニカルジピンが得られた旨記載されていた。右のうち、「フロロホルム」は「クロロホルム」、「ニトロン」は「ニトロ」の各誤記であることが明らかであり、「カラムクロマトグラフィー」も、同補正書で挿入された他の一一の実施例中九例では反応液を「シリカゲルカラムクロマトグラフィー」に付す旨記載されており、「カラムクロマトグラフィー」に付す旨記載しているのは右実施例13のみである(他の二例は右実施例13と同様に処理する旨の記載がある)ことに照らすと、「シリカゲルカラムクロマトグラフィー」の誤記であると認められる。
また、手続補正書(1)の実施例12、15、19、20、21には、順に本件明細書実施例1、3、4、5、6とそれぞれほぼ同一の記載がなされており、その原料化合物及び目的化合物をみると、実施例12は、R5がインプロピレン基である点以外は塩酸ニカルジピンと同一であり、実施例15は、R3がフェニル基である点以外は塩酸ニカルジピンと同一であり、実施例19は、式<1>におけるニトロ基の位置が異なり、かつR5がイソプロピレン基である点以外は塩酸ニカルジピンと同一であり、実施例20は、Aがプロピレン基であり、かつ、R5がイソプロピレン基である点以外は塩酸ニカルジピンと同一であり、実施例21はR5がエチレン基である点以外は塩酸ニカルジピンと同一であるから、これらの記載も、実施例13のとおり塩酸ニカルジピンが生成することの裏付けをなしていると認められる。
更に、原出願の願書添付の明細書には、発明目的物である同明細書記載の式<7>で示される新規な1・4-ジヒドロピリジン-3・5-ジカルボン酸アミノアルキルエステル誘導体及びその塩は血管拡張作用及び血圧降下作用を有しており、降圧剤及び血管拡張剤特に冠及び脳血管拡張剤として期待される有用な化合物であり、殊にその塩は水に極めて易溶性である点が特徴であつて、注射剤として使用することができる旨記載されており、塩酸ニカルジピンを含む1・4-ジヒドロピリジン-3・5-ジカルボン酸アミノアルキルエステル誘導体の塩の有用な性質についての説明がなされている。
3 被告は、右実施例13に記載の方法で得られる結晶<1>は塩酸ニカルジピンではなく、塩酸ニカルジピンに、エチルエーテルとアセトンが六対三対一のモル比で化学的に結合したものである旨主張する。そこで検討するに、まず、本件明細書の実施例2、7及び8に記載の製造方法を追試した実験結果は次のとおりと認められる。
(一) 「特公昭56-6417の追試実験報告書」
被告研究部員が結晶<1>についての実施例2前段の記載を等倍スケールで追試して、クロマトグラフィーで分離した溶出液を濃縮して得られた黄色油状物を、アセトンに溶解し、塩化水素飽和エタノール溶液でpH一とした後濃縮した結果二・八八gの黄色結晶性粉末が得られ、その後の処理につき明細書には「アセトン-エーテルより結晶化する。」とあるところ、被告研究部員が常法と理解する方法に従つて、右結晶性粉末二・五gをアセトン・エーテル混液(一対一)約四〇mlに加温溶解して濾過し、〇~五℃で時々撹拌しながら放置し、途中硝子壁をスパテルで擦り結晶化を促進させて、得られた結晶を濾取し風乾後、四〇℃で三日間減圧乾燥したところ黄色結晶二・三八二gを得た。
右結晶を分析したところ、(1) 融点は一三六~一三七℃(分解)、(2) 元素分析値は〔C60・77、H6・55、7・51、Cl6・33〕(なお、純粋な塩酸ニカルジピン結晶の元素分析の理論値は〔C60・52、H5・86、N8・14、Cl6・87〕である。)、(3) 薄層クロマトグラフィー(TLC)の結果は、クロロホルム・アセトン(五対一)、四塩化炭素・酢酸エチル(一対一)、アンモニア飽和クロロホルム・イソプロピルエーテル・メタノール(七〇対三〇対五)のいずれの溶媒で展開した場合も塩酸ニカルジピンと同じRf値の単一スポットであり、(4) 質量分析計(MS)による測定の結果、質量スペクトルには塩酸ニカルジピンの遊離塩基体と考えられる分子イオンピークが確認され、(5) KBr錠剤法により結晶状態での赤外分光分析(IR)を行つて赤外吸収スペクトルを確認し、(6) 核磁気共鳴(NMR)分析の結果、塩酸ニカルジピンのスペクトルと化学シフト値及びプロトン比において一致する九個のシグナルが観察された他、<1> アセトンの水素の化学シフト値と一致する一個のシグナル(2・18PPMの一重線)と、<2> エチルエーテルの水素の化学シフト値と一致する二個のシグナル(1・20PPMの三重線及び3・48PPMの四重線)が観察された。(7) 更に右結晶を八〇℃減圧で三時間乾燥して得た結晶と一〇五℃常圧で二時間乾燥して得た結晶について融点測定、元素分析、赤外分光分析、核磁気共鳴分析を行つたところ、両者とも融点測定、赤外分光分析及び核磁気共鳴分析の結果に変化はなく(但し、後者の結晶の核磁気共鳴分析の結果中、右(6)<1>に対応するシグナルは2・15PPMの一重線として観察された)、元素分析の結果は、前者が〔C60・73、H6・47、N7・63、Cl6・32〕、後者が「C60.67、H6・51、N7・62、Cl6・31〕であつた。(8) そして、被告研究部員が、核磁気共鳴分析により得たプロトン比から計算して、塩酸ニカルジピン六分子に対し一分子のアセトンと三分子のエチルエーテルが取り込まれていると仮定し、元素分析値の理論値を計算したところ、〔C60.83、H6・45、N7・47、Cl6・30〕であり、元素分析の実測値と近似した。
(二) 「実験報告書<1>」
原告中央研究所解析センターにおいて、結晶<1>、<2>、<4>及び<5>についての本件明細書実施例2及び8の各記載に従つて、化合物<1>、<2>、<4>及び<5>を合成し、各化合物の物性を測定した結果、(1) 融点は、化合物<1>は一三五~一四〇℃、同<2>は一六八~一七〇℃、同<4>は一六八~一七〇℃、同<5>は一七九~一八一℃であつて、順に本件明細書記載の結晶<1>、結晶<2>、結晶<4>及び結晶<5>の各融点と実験誤差範囲内で一致し、(2) 赤外吸収スペクトルは、クロロホルム溶液中で、後記(九)記載の点を除き互いに同一であつて、分子の振動状態が同一であることが確認され、(3) 紫外吸収スペクトルはエタノール溶液中及び〇・一N塩酸溶液中でいずれも互いに同一であつて、共役系の電子状態が同一であることが確認され、(4) 質量スペクトルは、分子イオンピークでの高分解質量スペクトルは小数点以下二桁まで互いに一致し、その測定値は塩酸ニカルジピンの遊離塩基体に相当する〔C26、H29、N3、O6〕の分子式を与え、フラグメントイオンの測定値も互いに同一であつた。
(三) 「実験報告書<2>」
原告開発薬理研究所の研究員が右化合物<1>及び<2>を使用して、麻酔犬における椎骨動脈血流量増加作用を測定した結果、パパベリンの効力を一としたときの相対効力比は化合物<1>が二五七、化合物<2>が二六五であり、ほぼ同等の脳血管拡張作用を有することが確認された。
(四) 「実験報告書<3>」
原告生産技術研究所員が結晶<1>についての本件明細書の実施例2前段に記載の製造方法を等倍スケールで追試して、カラムクロマトグラフィーで分離した溶出液を薄層クロマトグラフィーで追跡し、目的物質を含むフラクションを集めて濃縮して得られた粘稠物を、アセトンに溶解し、塩化水素飽和エタノール溶液でPH二~一とした後濃縮した結果粘稠カラメル状物が得られ、その後の処理については明細書には「アセトン-エーテルより結晶化する。」とあるところ、原告研究所員が常法と理解する方法に従つて、右粘稠カラメル状物にアセトン約一八mlを加えて溶解し、エチルエーテルを少量ずつ加え、不溶物が一時的に析出するがふり混ぜて溶解させ、エチルエーテルを加え、生じる不溶物を溶けなくなるまでこの操作を繰り返して、できるだけ多くのエチルエーテルを加え、最後にアセトンを少量加えて透明溶液とした後、室温で撹拌を続けると約四時間で結晶が析出したが、そのまま一夜撹拌を続け、結晶を濾取し、減圧下に四〇~五〇℃で三時間乾燥した結果、融点一三七~一四〇℃、元素分析値〔C60・64、H6・24、N7・62、Cl6・73〕の結晶四・〇gを得た。右結晶を更に減圧下に一〇〇℃で三時間乾燥した結果、結晶四・〇gを得たが、その分析の結果、(1) 融点は一三六~一三八℃で、融点測定の際に発泡現象が認められ、(2) 元素分析値は〔C60・28、H6・05、N7・93、Cl6・70〕であり、(3) 赤外吸収スペクトルは、後記(九)記載の点を除き融解の前後において同一であつた。
(五) 「甲第19号証の追試実験報告書」
被告研究部員が右(四)記載の実験の追試を行い、カラムクロマトグラフィーで分離した溶出液を薄層クラマトグラフィーで追跡し、目的物質を含む画分を集めて濃縮して得られた黄色粘稠物を、アセトンに溶解し、塩化水素飽和エタノール溶液でPH一とした後濃縮した結果黄色結晶性粉末三・二六gが得られ、右粉末を一グラムずつ三回にわたり、アセトン約三・五mlを加えて溶解し、エチルエーテルを一滴ずつ加え、不溶物が一時的に析出したがふり混ぜて溶解させ、エチルエーテルを加え、生じる不溶物が溶けなくなるまでこの操作を繰り返して、できるだけ多くのエチルエーテルを加え、最後にアセトンを少量加えて透明溶液とした後、室温で撹拌したところ約二〇分で結晶が析出したが、そのまま一夜撹拌を続け、結晶を濾取し、減圧下に四〇~五〇℃で三時間乾燥した結果、三回とも、融点一三六~一三九℃(分解)、元素分析値〔C60・52、H6・46、N7・55、Cl6・27〕の黄色結晶〇・八三gを得た。右結晶〇・六五gを更に減圧下に一〇〇℃で三時間乾燥した結果、結晶〇・六三gを得たが、その分析の結果は、三回とも、(1) 融点は一三六~一三八℃で、融解と同時に発泡現象が観察され、(2) 元素分析値は〔C60・28、H6・34、N7・87、Cl6・53〕であり、(3) 赤外分光分析の結果、KBr錠剤法で測定した融点測定前の結晶の赤外吸収スペクトルは前記(一)記載のそれと一致したが、クロロホルム溶液として塩化ナトリウムセルで測定した時のスペクトルは一部において右(四)記載のそれと異なり、融解の前後においてスペクトルは同一であり(但し、融解前には2870〔単位はcmの逆数〕の吸収帯にショルダーがあり、融解後にはこのショルダーは消滅した)、(4) 核磁気共鳴分析の結果は、前記(一)(6)と同様の化学シフト値のシグナルが観察され(但し、1・20PPM、2・18PPM、3・48PPMの各ピークの面積は前記(一)(6)におけるよりも小さく、更に融解後にも同分析を行つたところ、右三つのシグナルは観察されなかつた。)、(5) 熱重量測定・示差熱分析(TG-DTA)の結果、TG曲線において一二八・三~一四一℃にかけて二・三%の重量減少が観察され、DTA曲線において、その重量減少と平行して一二〇℃付近から吸熱ピークが観察され、それは一三二・三℃で極大に達し、その後発熱ピークは観察されなかつた。
(六) 「乙第9号証の追加実験報告書」
被告研究部員が、前記(一)記載の実験で四〇℃三日間減圧乾燥した結晶を一〇五℃二時間常圧乾燥して得た融点一三六~一三七℃(分解)の結晶を用いて分析したところ、(1) GC/質量分析の結果、試料中にアセトンとエチルエーテルの存在が確認され、(2) 熱重量測定・示差熱分析の結果、TG曲線において一三六・一~一四七℃にかけて重量減少が観察され、DTA曲線において、一三四・九℃付近から吸熱ピークが観察され、それは一四二・一℃で極大に達し、その後発熱ピークは観察されず、TB曲線における減少率は五・〇%であつた。
(七) 「乙第9及び第11号証で得た結晶に関する追加実験報告書」
被告研究部員が、前記(六)記載の実験で使用したのと同じ四〇℃三日間減圧乾燥後一〇五℃二時間常圧乾燥して得た結晶(対象物A)、前記(五)記載の実験で四〇~五〇℃三時間減圧乾燥した結晶を一〇〇℃三時間減圧乾燥して得た結晶(対象物B)、結晶<4>についての本件明細書実施例8([1])の記載を追試して得た結晶(四〇℃、三時間減圧乾燥したもの。比較物C)、結晶<3>についての本件明細書実施例7の記載を追試して得た結晶(四〇℃、三日間減圧乾燥したもの。比較物D)について分析したところ、(1) 顕微鏡写真撮影(四八〇倍)の結果、比較物Cの結晶は板状で、その他の結晶は柱状であり、(2) X線回析(XRD)の結果、対象物A及びBは比較物Dとほぼ一致し、比較物Cとは異なる回析図を示し(このことは、対象物A及びBの結晶の物理的形状が比較物Dとほぼ同じであり、比較物Cとは異なることを示す。)、(3) 熱重量測定・示差走査熱量測定(TG-DSC)の結果、比較物Cは、DSC曲線で一七〇℃付近に吸熱ピースが観察され、TG曲線には減量変化がみられなかつたのに対して、比較物Dは、DSC曲線で一三六・三℃に吸熱ピークが、また一八四℃付近に小さく鋭い吸熱ピークが観察され、それと平行してTG曲線には四・八%の重量減少が観察され、対象物Aは、DSC曲線で一四二・三℃に吸熱ピークが、また一八八℃付近に小さく鋭い吸熱ピークが観察され、それと平行してTG曲線では五・八%の重量減少が観察され、対象物Bは、DSC曲線で一三〇・九℃に吸熱ピークが、また一七五・七℃に小さい吸熱ピークが観察され、それと平行してTG曲線では二・二%の重量減少が観察された。
(八) 「特公昭56-6417・物件<1>~<5>のNMRデータに関する報告書」
結晶<1>についての実施例2前段の記載を追試して得た結晶(四〇℃三日間減圧乾燥後、一〇五℃二時間常圧乾燥したもの)の核磁気共鳴分析の結果(NMRスペクトル)と、結晶<2>についての実施例2後段の記載を追試して得た結晶(四〇℃、四二時間減圧乾燥したもの)、結晶<3>についての実施例7の記載を追試して得た結晶(四〇℃、三日間減圧乾燥したもの)、結晶<4>についての実施例8([1])の記載を追試して得た結晶(四〇℃、三日間減圧乾燥したもの)、結晶<5>についての実施例7の記載を追試して得た結晶(四〇℃、三日間減圧乾燥したもの)のNMRスペクトルを比較すると、いずれについても、化学シフト値及びプロトン比において塩酸ニカルジピンのスペクトルと一致する九個のシグナルが観察された他、結晶<1>についての実施例2前段の記載を追試して得た結晶はアセトンの水素の化学シフト値と一致する一個のシグナル(2・15PPMの一重線)とエチルエーテルの水素の化学シフト値と一致する二個のシグナル(1・20PPMの三重線及び3・48PPMの四重線)が観察され、結晶<3>についての実施例7の記載を追試して得た結晶のNMRスペクトルではアセトンの水素の化学シフト値と一致する一個のシグナル(2・15PPMの一重線)が観察されたのに対して、その他の結晶については、アセトン又はエチルエーテルに由来するシグナルは観察されなかつた。
(九) 「特公昭56-6417・物件<1>のIRスペクトルに関する報告書」
前記(二)、(四)及び(五)に記載の各物件の溶液中における赤外吸収スペクトルを比較検討すると、融点測定前(融解前)における赤外吸収スペクトルでは、結晶<1>の製造方法を追試して得られた結晶についてはいずれの実験においても、2870(単位はcmの逆数)の吸収帯に小さなピークが観察される(但し乙11においてはピークではなくショルダーとして観察される)が、前記(二)の結晶<2>、<4>及び<5>の製造方法を追試して得られた結晶については同ピークは観察されない。
そこで、右ピークの由来確認のために、結晶<1>の製造方法を追試して得られた結晶(四〇℃三日間減圧乾燥後、一〇五℃二時間常圧乾燥したもの)、結晶<4>の製造方法を追試して得られた結晶、アセトン、エチルエーテルにつきクロロホルム溶液中において赤外分光分析を行つたところ、結晶<1>の製造方法を追試して得られた結晶及びエチルエーテルの赤外吸収スペクトルには右吸収帯にピークが観察され、うち後者のピークが大きく、他の二者については同ピークは観察されなかつた。更に、結晶<4>の製造方法を追試して得られた結晶にエチルエーテルを二分の一等量、一等量及び二分の三等量を添加してクロロホルム溶液中において赤外分光分析を行つたところ、いずれも同ピークが観察され、かつエチルエーテルの添加量が多いほどピークが増大しており、エチルエーテルを二分の一等量添加した場合の同ピークの強度は、同分析、前記(二)及び(四)における結晶<1>の製造方法を追試して得られた結晶の融点測定前(融解前)における溶液中での赤外吸収スペクトルにおける同ピークの強度に近かつた(したがつて、同ピークはエチルエーテルに由来するものと認められる。)。
更に、前記(四)、(五)の各実験においては、同結晶の融点測定後(融解後)における溶液中での赤外吸収スペクトルには同ピークないしショルダーは観察されなかつた(このことは、融解に際してエチルエーテルが脱離していることを示すものと考えられる。)
4 以上の原出願の願書添付の明細書及び手続補正書(1)の各記載及び前項記載の各実験分析の結果を総合すると、結晶<1>についての実施例2前段の記載による製法により、原料化合物を脱水縮合反応させた結果、現実に塩酸ニカルジピン分子の生成を得ることができたこと、しかし同方法による結晶化により得られたものは、塩酸ニカルジピンの純粋結晶は少なく、その大部分は、塩酸ニカルジピンの他に結晶化溶媒として使用したエチルエーテル及びアセトンを結晶溶媒として含む塩酸ニカルジピンの溶媒和物結晶として結晶化したもの(結晶<1>は右両者の混合物)と推認するのが相当である。
結晶<1>について、原告は、塩酸ニカルジピン結晶に各溶媒が付着しているにすぎない旨主張し、被告は、前記の割合で結晶溶媒を含む溶媒和物結晶である旨主張するが、特に、(1) 結晶<1>及び各実験において結晶<1>についての本件明細書の記載を追試して得られた各物質(以下、まとめて「結晶<1>追試物」という。結晶<2>ないし<5>についても同様。)の融点が、純粋な塩酸ニカルジピン結晶であることに争いがない結晶<2>、<4>及び<5>並びに結晶<2>、<4>及び<5>追試物の融点よりかなり低く、塩酸ニカルジピン一モル当たり二分の一モルのアセトンを結晶中に含むことに争いのない結晶<3>の融点に近いこと、(2) 結晶<1>追試物の融点測定の際、融解と同時に発泡現象を生じており、手続補正書(1)の結晶<1>についての「(分解)」の記載も同様の現象を記載したものと推認されること、(3) 結晶<1>の結晶化の際に溶媒として用いられたエチルエーテルの沸点は三四・五℃であり、アセトンの沸点は五六・三℃であること、(4) 溶媒が単に不純物として結晶に付着している場合には、通常その溶媒の沸点よりやや高い温度での乾燥処理で溶媒は結晶より除去され、熱重量測定・示差走査熱量測定(TG-DSC)を行つた場合、前項(七)の比較物C(結晶<4>追試物)の如く、乾燥処理後の試料のDSC曲線はその結晶の融点を中心に現れる一本の吸熱ピークを与え、また質量減少曲線(TG)はフラットで変化がみられないことが通常であるのに、四〇℃三日間減圧乾燥後一〇五℃二時間常圧乾燥して得た結晶である対象物A(結晶<1>追試物)は、DSC曲線で一四二・三℃に吸熱ピークが、また一八八℃付近に小さく鋭い吸熱ピークが観察され、それと平行してTG曲線では五・八パーセントの重量減少が観察され、四〇~五〇℃三時間減圧乾燥後一〇〇℃三時間減圧乾燥して得た結晶である対象物B(結晶<1>追試物)も、DSC曲線で一三〇・九℃に吸熱ピークが、また一七五・七℃に小さい吸熱ピークが観察され、それと平行してTG曲線では二・二パーセントの重量減少が観察され、乾燥処理によつても除去できなかつた溶媒が結晶中に存在したために、DSC曲線において当該結晶の融点を中心とする吸熱ピークが現れるとともに、それに対応してTG曲線において重量減少が現れたものであり、前記の融点測定時に観察される発泡現象と併せて考えると、発泡現象は結晶中に存在する溶媒の分子が脱離蒸発したことによるもので、DSC曲線の第一ピーク発現に連動する質量現象はその脱離蒸発に対応していると考えられること、他方、DSC曲線の第二の吸熱ピークは結晶<1>中に含まれる少量の塩酸ニカルジピン結晶の融解による吸熱ピークを示すと考えることができること、(5) X線回析の結果、結晶<1>追試物の結晶のXRDパターンが、結晶<4>追試物の結晶のパターンと異なり、結晶<3>追試物のパターンに近似していること(但し、いずれも単結晶でのX線回析ではない。)、(6) 結晶<1>追試物についてKBr錠剤法により結晶状態での赤外分光分析を行つて赤外吸収スペクトルを確認した結果、乾燥条件を強めても、アセトン及びエチルエーテルを溶媒として用いて結晶化する具体的な方法を変えた場合も、同様のスペクトルを示したこと、(7) 結晶<1>追試物の核磁気共鳴(NMR)分析の結果、塩酸ニカルジピンのスペクトルと化学シフト値及びプロトン比において一致する九個のシグナルの他、アセトンの水素の化学シフト値と一致する一個のシグナルとエチルエーテルの水素の化学シフト値と一致する二個のシグナルが観察されたこと、更に、右三つのシグナルは融解後のNMRスペクトルでは観察されず、このことは融解に際してアセトン及びエチルエーテルが脱離していることを示すものと考えられること、(8) 結晶<1>追試物の融点測定前(融解前)における溶液中の赤外吸収スペクトルには、エチルエーテルに由来すると認められるピークないしショルダーが存在し、同結晶の融解後における溶液中での赤外吸収スペクトルには同ピークないしショルダーは観察されず、このことは、融解に際してエチルエーテルが脱離していることを示すものと考えられること、他方、(9) 核磁気共鳴分析においてプロトン比から溶媒の分子数を正確に特定することは無理であること、(10) 元素分析値は、生じる誤差が大きいためにその数値から各分子の存在割合を確定することはできないこと、(11) 熱重量測定における重量減少も、四〇℃三日間減圧乾燥後一〇五℃二時間常圧乾燥して得た結晶については五・〇パーセントないしは五・八パーセントであり、四〇~五〇℃三時間減圧乾燥後一〇〇℃三時間減圧乾燥して得た結晶については二・三パーセントないしは二・二パーセントにとどまり、被告主張のとおり塩酸ニカルジピン一モルに対してエチルエーテルの二分の一モル、アセトン六分の一モルの割合の溶媒和物結晶とした場合の理論値八・三一パーセントやそのうちエチルエーテル二分の一モルのみの理論値六・五九パーセントよりも低いこと、以上を総合考慮すると、結晶<1>は、その一部少量部分は塩酸ニカルジピンのみの純粋結晶、その余の大部分は、溶媒として用いたアセトン及びエチルエーテルが単に塩酸ニカルジピン結晶に付着しているのではなく、塩酸ニカルジピン分子とアセトン分子及びエチルエーテル分子が化学的な相互作用により結合して溶媒和物結晶として結晶化したものの混合物と推認せざるを得ない。なお、溶媒和物結晶における溶媒分子と親分子との相互作用は水素結合、ファン・デル・ワールス力等様々であり、本件において、アセトンやエチルエーテルなどがどのような結合の仕方で位置を占めているのかは明らかでない。
5 まとめ
そこで、以上の諸事実を基礎に以下争点につき判断する。まず、結晶<1>の大部分が溶媒和物結晶であるといつても、塩酸ニカルジピン分子が生成したうえで、その結晶化段階において結晶溶媒として使用したアセトン分子及びエチルエーテル分子が少量溶媒和物として結合しているものであり、結晶物中においても、塩酸ニカルジピン分子そのものは生成・存在している。そして、本件発明は、式<1>ないし<3>で示される各原料化合物を反応させて式<4>で示される目的化合物(新規な1・4-ジヒドロピリジン-3・5ージカルボン酸アミノアルキルエステル誘導体及びその塩)を製造する方法であつて、結晶物の発明ではないことに鑑みると、手続補正書(1)の実施例13に記載の具体的原料化合物を化学反応(脱水縮合反応)させることにより、実際に塩酸ニカルジピンが得られたことは手続補正書(1)の実施例13の記載及び前記追試実験から明らかであり、本件発明に属する塩酸ニカルジピンの製法は同実施例により開示されているということができる。
そして、実施例2の後段記載は、単に再結晶化に関するものであり、特許請求の範囲に記載の反応に関する部分に関係のないものであつて、特許請求の範囲に記載の技術的事項の裏付けをなす部分についての補正でもなく、しかも、その再結晶化方法は化学実験において通常行われる方法である(弁論の全趣旨)。そのうえ、原出願の願書添付の明細書には、前記のとおり、発明目的物である同明細書記載の式<7>で示される新規な1・4-ジヒドロピリジン-3・5-ジカルボン酸アミノアルキルエステル誘導体及びその塩は血管拡張作用及び血圧降下作用を有しており、降圧剤及び血管拡張剤特に冠及び脳血管拡張剤として期待される有用な化合物であり、殊にその塩は水に極めて易溶性である点が特徴であつて、注射剤として使用することができる旨記載されており、塩酸ニカルジピンを含む1・4-ジヒドロピリジン-3・5-ジカルボン酸アミノアルキルエステル誘導体の塩の有用な性質についての説明がなされているところ、結晶<1>についての実施例2前段の記載を追試して得た結晶と結晶<2>についての実施例2後段の記載を追試して得た結晶を使用して、麻酔犬における椎骨動脈血流量増加作用を測定した結果、パパベリンの効力を一としたときの相対効力比は前者が二五七、後者が二六五であり、ほぼ同等の脳血管拡張作用を有することが確認されており、結晶<1>と結晶溶媒を含まない純粋な塩酸ニカルジピン結晶との間に薬理効果上格段の差を生じるわけでもない。
したがつて、本件特許出願が、願書添付の明細書中に、結晶<1>についての実施例2前段の記載の他に結晶<2>についての実施例2後段の記載を追加して、結晶溶媒を含まない塩酸ニカルジピン結晶を得る方法を記載したことにより、同明細書の要旨が、手続補正書(1)による補正後の原出願の願書添付の明細書に記載された技術的事項の範囲外のものとなつたと認めることはできない。
同様に、手続補正書(6)により結晶<4>及び<5>についての実施例8([1])及び([2])の記載を加入する補正をしたことも、既に具体的な記載のある目的化合物である塩酸ニカルジピンについて、粗製の原料を用いても同様に化学反応を起こして塩酸ニカルジピンが生成すること、結晶化の手法の相違により異なる結晶形で得られることを記載したにとどまるものであり、このことにより、特許請求の範囲に記載した技術的事項を実質的に変更するものではないから、本件特許出願の願書に添付した明細書の要旨を変更するものと認めることはできない。
二 結論
以上によれば、本件特許出願の出願日は、手続補正書(1)を提出した昭和四八年七月一七日であり、塩酸ニカルジピンは、その前に日本国内において公然知られた物でないから、被告が輸入、販売する塩酸ニカルジピンや、被告が製造販売する塩酸ニカルジピン製剤中の塩酸ニカルジピンは、本件発明の方法により生産したものと推定される。そうすると、被告の右輸入・製造・販売行為は本件発明の実施にあたる。したがつて、原告の請求はいずれも理由がある。
(裁判長裁判官 庵前重和 裁判官 長井浩一 裁判官 辻川靖夫)
《当事者》
原 告 山之内製薬株式会社
右代表者代表取締役 森岡茂夫
右訴訟代理人弁護士 松本重敏 同 青柳(日へんに令)子 同 美勢克彦 同 筒井 豊
右松本輔佐人弁理士 藤野清也
被 告 藤本製薬株式会社
右代表者代表取締役 藤本邦介
右訴訟代理人弁護士 上坂 明 同 北本修二
右両名輔佐人弁理士 伊藤武雄